考えるヒント18 『絶対と相対』

今日は『絶対と相対』についてお話したいと思います。


『絶対的』なものと『相対的』なもの、どちらがより正しく素晴らしいものなのか。これは古今東西、昔より議論されてきた哲学の難問です。
『絶対』とは宇宙の法則や神の視点から見て正しいと思われる事柄であり、『相対』とはそれぞれ個人や別の個体におけるそれぞれの視点から見た事柄を指します。したがって『絶対』はたったひとつの答えしかありませんが、『相対』はそれぞれから見た答えがあり、つまり無限に答えがあるということです。

近年、世界の流れは『相対』を重視する傾向にあります。『平等』『個性の尊重』などまさに相対的なものの見方が主流となっています。


しかし『相対的』な視点には実は落と し穴が隠されているのです…



市場でマグロのつやを見ただけでそのウン百万円の価値がわかる人がいます。八百屋でスイカを叩いただけでそのうま味がわかる人がいます。彼等のような専門家には『絶対』の能力が備わっています。
それと同じように、絵画を見ただけでその価値や製作年代がわかる人もいれば、音楽を聴けばそのジャンルやレベルの高さがわかる人もいます。

もし『相対的』な視点で個々人がマグロを取引したり、中がパサパサで空洞のスイカを八百屋で売ったりしたら大変なことになるし、例えば『モナリザ』を知らない人に見せてもそれがまさか何百億の価値があるとはよもや思わないし、ギターやサックスをやったことのない人に他人の技術の高さを評価することなどまず できません。

つまりそこには大前提としての『絶対的なるもの』が9割ぐらいはまず含まれているのです。それを見越した上であとの1~2割を個性や個々の好みで多少変化を付けているにすぎないのです。

それを取り違えて10割すべてを『相対的なるもの』に視点を変えてしまえば、もはや何が正しいのかもわからなくなり『相対』のもつ素晴らしさすら消えうせ、そこには個々がてんでんばらばらに選んだ事柄をさらにてんでんばらばらに評価する、価値観の全く見えない世界が生まれてしまうのです。
そういう視点から見た時、現代は本当の価値というものを見いだせない不幸な時代へ加速度的に進んでいっているのではないでしょうか。
昔はその道のプロに対して素人は「雲の上の存在」のように感じることがありましたが、『相対的』な世界観が広まり、誰でも素晴らしいと考えてしまい、プロと素人の距離感がなくなりました。

それらのことを踏まえて厳密に言えば、その分野の専門家以外には発言させてはならないし、世の中のことを考えていない人間には選挙権も与えてはいけないのです。実は民主主義の落とし穴もここにあります 。ダメな国民がダメな政治家を選び、国がさらにダメになり、さらにダメになった国民がさらにダメな政治家を選び、しまいには国が滅びてしまうのです。(今のところ民主主義以上にましな制度が考えだされていないためこれが世界の主流となっています)

この同道巡りはあらゆる分野、世界に言えることなのです。

その土地や国の文化の素晴らしさはその土地の人が一番よくわかっているはずだから、よそ者は口を出すべきではないし、音楽を日々考えている人が音楽を評価するべきだし、マグロは魚屋さん、スイカは八百屋さんに任せておくべきだし、『人』の評価は、人間を日々必死で観察し考えている人に託すべきだし、

『この世界とはなにか』『人生いかに生きるべきか』という問いに 対する答えは、それを考え尽くした人以外は出すべきではないし、

もし何らかの分野の答えを出したいのであれば、その分野を徹底してやるしか道はないのです。



『その分野における能力のない者の発言などほぼ無に等しい…』

この事実を傲慢になりすぎた現代人は肝に銘じておくべきなのです…


昔の人々はだからこそ黙ってただひたすらに黙々と努力し続ける人生を送ったのです。
現代人よりも遥かに自然の節理を見極め

『絶対的なものの大切さ』

『相対的なものの危うさ』

『この大自然、大宇宙に対する自分の無力さ』

をわかっていたのです。

自分とは別のところに、絶対的なものがあるからこそ
『和をもって尊しとなす』
に代表されるような『和』というような精神も生まれてくるのです。


人の命は地球よりも重い、世界に一つだけの花になりなさい、などと教えられて育った浅はかな我々現代人に、そのことがわかる日が再びいつの日か訪れることはあるのでしょうか‥





『語りえぬものには沈黙しなければならない』

  by ヴィトゲンシュタイン





考えるヒント18『絶対と相対』でした


To be continued‥