音楽を考える 5『声質』

『歌唱とは人間そのものである』



映画やドラマにおいて、俳優はその時と場に応じた声の出し方をする。喜んでいるシーン、怒っているシーン、語り合うシーン、愛を打ち明けるシーン、悲しんでいるシーンなどさまざまであり、もし悲しんでいるシーンで喜んでいる声質をだしたならその映画はもうそこで台なしである。
さらには、怒るシーンが多い配役には、怒る声質の得意な役者を付け、恋愛シーンの多い配役にはそれが得意な役者を付ける。
そして、非常に演技力の問われる超大作には超一流の役者を付ける。超大作ともなると最高の声質で様々な場面で話せる役者をつけないと、その作品のレベルと役者とのバランスがとれず、支離滅裂なシーンの連続になってしまう。つまりその『作品』に見合う器量、もしくはそれを上回る器量を持ち合わせた『人物』でないとそれは勤まらないのである。


『歌』も映画やドラマとまったく同じでそのシーン、シーンに合わせた声質で歌わなければならない。つまりはその歌詞とメロディーを語るのである。悲しい歌詞の部分では悲しい声、高揚したメロディーの部分では喜びの声、そして『超大作』を歌うにはそれに見合う声を出さなければならない。もし見合わない声を出してしまえば映画やドラマ同様、支離滅裂となる。
そして歌というのは映画とは違い、その一作品のなかに喜怒哀楽が様々に含まれるということはあまりなく、喜びの歌は終始喜び、悲しみの歌は終始悲しみといった具合である。つまり歌い手の声質の幅により、すでに歌える歌が決まってしまっているのである。無理に合わない歌を歌えばそれはただの一人よがりで誰も感動しない。

そして、その声の種類以上に大事なのが声のレベルである。レベルの低い聴き心地のよくない声でいくら頑張って歌ってもそれはいっこうに他人には届かない。
つまりはそれは頑張っていないのと同様なのである。歌において頑張るというのは、つまり『素晴らしい歌』を歌うことなのであるから、本当の頑張りとは、どうすれば素晴らしい歌声を披露出来るようになるか考え、試行錯誤するということなのである。

そしてそれは単純に考えるなら、『他人が聴いて心地よい、感動を与えられる歌声』ということになる。


映画やドラマで演技や語りが下手な人がでてきて感動できるだろうか?

たいした器のない人間が出て来て感動出来るだろうか?

では歌は?

歌唱技術だけで声質がイマイチな人間が出てきて感動できるだろうか?

たいした器のない人間の歌声に果たして感動出来るだろうか?


俳優や女優には素晴らしいトップレベルの人間しかなれないように、プロアーティストも基本的にトップレベルの人間しかなれないのである。
普段から皆に一目置かれる人間だからこそ歌も一目置かれるのだ。
人間と歌唱の二つが満たされて初めて人々は感動する。

そしてその二つの掛橋は何を隠そう『声質』なのである。


『声質』は日常生活において磨かれるものであり、歌唱の練習だけでは磨かれるものではない。
ステージで『他人に心地よい歌声を届ける』のと、日常で『他人にとって心地よい声で話す』のはほぼ同じことであり、日常でそれが出来ていないのにステージで突然できるようになることなどありえないのである。
日常生活で他人を幸せにできる人だけが、ステージでも他人を幸せにできるのである。

『歌唱』を極めるということは『技術』と『声質』を極めるということであり、『声質』を極めるということは日常での『他人への思いやり』を極めるということであり、『他人への思いやり』を極めるということは『人間としての品格』を極めるということである。

つまり、歌手にとって

『歌とは人生そのもの』

であり

『歌のレベルと人間のレベルは一対』

であり

『歌を歌う時も日常で語り合う時も同一』

であり、つまり

『歌唱とは詞を語るもの』

であり


『歌を極めるということほど、人間がともに磨かれるものは他にはないのである』