考えるヒント25『人類がネットに支配される日』



ネットというものが持っている機能には大きく分けて3つの種類があります。

1 調べる
2 楽しむ(観賞)
3 コミュニケーション

『調べる』というのは辞書や新聞、学問や本の延長上であり、使い方さえ間違わなければ大変に便利で有用なものです。
同様に、『楽しむ』というのもテレビやゲーム、音楽の延長上で有用なものです。(ちなみにショッピングというのは1、2、3を合わせたものです)
ただし、もとから便利ではまりこみやすいテレビやゲーム、最新ニュースやショッピングなどがさらに便利にいつでも手元にある状態というのは、人間という楽をする動物にとって結果的には、かなりの致命的な発明でした。

そして最後に『コミュニケーション』という部分に、化け物のようなものが現れます。
当初、メールや書き込みというものは基本的に手紙の延長上であり、パソコンでやっている時代にはそれを高速でやりとりしているだけのものでした。
携帯電話はそれをさらに高速化させましたが、依然としてパソコンには機能的に劣っているため、人間を牛耳るほどの存在にはなり得ませんでした。
しかしパソコンを持ち運べるスマートフォンという最終型が普及し、それに追随して、コミュニケーションツールが爆発的に発達しました。(おそらく何万年経とうがスマートフォンが最終型となります)

これは何を意味するか。

コミュニケーションツールが発達しすぎると、皆それぞれが監視されている状態になります。
リアルタイムで目の前に相手がいるかのような状態になるのです。(場合によっては複数人~全校生徒など)
さらに皆が私生活をさらけ出さざるをえなくなり、周りに合わせにかかります。やらないと村八分にされてしまいます。

こうなると、それに費やす時間が爆発的に増え、さらに皆が均一化の方向を一挙にたどります。
結果、コミュニケーションし過ぎることによって、個性もなく、特筆すべき能力もない均一化された、ネットの化身のようなつまらない人間ばかりが生成されていく世の中が永遠と進化し続いていくのです。それまでその他の事に費やしていた時間が、すべてネットに費やす時間へと変化するのですから、当然そうなります。ネット以外の分野はほぼ壊滅です。

以前、テレビが人間を支配すると言われた時代がありましたが、その理由は「テレビは一方通行でありコミュニケーションがとれず、嫌になればスイッチ一つで消すことができる、人間からはかけ離れすぎた便利なものだから」というものでした。

しかしネットという化け物は、逆に内面にコミュニケーションという人間の性(さが)を取り込むことにより、スイッチ一つで消すこともできなければ、落ちついて一人の時間を取ることも許さないように操ってくるのです。しかもそれはどんどん進化していき、相互に監視させ合い世界中を巻き込んだ巨大な化け物へと膨らんでいくのです。

世界大戦をしようが、大飢饉が起ころうが、天災であろうが水爆であろうが、これらは物理的な人類に対するダメージであり、そんなぐらいでは人類は滅ぼせないし、もし半分が死んでもまた増えていくのでびくともしません。

しかしネットは物理ではなく精神的に人類を滅ぼしてきます。しかも人類を使ってどんどん進化していく。映画のようにロボットに物理的に支配されるほうがまだましなのです。あの場合は精神はしっかりしてますから。

こんな化け物には人類は過去に出会ったこともないし、今後何万年経とうがこの化け物は進化し続け、人類を精神的に支配し均一化し続けていくのです。

これは宇宙の物理的な構造であり、宇宙中のどんな知的生物でも、最終的にはコミュニケーションを取りすぎるネット的な化け物に支配される道を辿るのです。こうならないことなどあり得ない。人類は何万回一からやり直おそうと、最終的に必ずこの化け物を発生させ、そして支配されるのです。さらに言えば何万回も連続でスマートフォンという最終型にたどり着くのです。
そして発生した後は永遠にその機能のみが進化し続けていく。
(その宇宙物理的構造をかいつまんで説明すると、知的生物には必ず言葉が発生し文字が発生する。文字は必ず平たい紙のようなものに書く。相手に意思を伝えるために船や使者、飛脚や郵便にその紙を運ばせていたのが、インターネットにより、一瞬で相手の国や家のパソコンという平たい紙に届く。パソコンを小さくし携帯化し常に持ち運び、どこでもいつでも一瞬で世界中の誰とでも文字をやり取りする。
この上はありません。永遠にスマートフォンの機能が少々進化するだけです。)


つまり、人類(知的生物)は誕生した時点で、必ずいつの日か最終的にコミュニケーションツールに支配されるのが決まっているのであり、その最終型が蔓延してきたどこかの時点を「特異点」として、爆発的にネットワークの支配領域が広がり、それ以降のあらゆる世代は、全く人間味のないネット支配の賜物のような意味のない価値の低い世界が永遠に続くのです。


そして…


かろうじて素晴らしいものに対する感受性を持ち得た『残陽のような人々』が最後に向かうのは、その特異点以前の素晴らしい時代や作品や人物伝、それぞれの国が辿った歴史、そういった過去の遺産にのみ、意味を見いだし、感激し、いにしえのみを懐かしむという時代がいつの日かやってくるのです。


人間ひとりひとりが、自分だけの世界をしっかり持ち、他に影響されず十人十色に生き生きと人生を過ごしていた、ネット特異点以前の短い数千年の時代。
それこそが人類の本当の宝なのであり、人類が発生した『意味』なのです。


人類の発展の20%~80%の期間にしか、本当に素晴らしい時代や人物や芸術や物語は発生しない。

人間とは、前の時代のほうが素晴らしいと、そうすべきと解っていても、楽な方へ流れていく、そういう生き物なのです。

したがってどう間違っても今後何万年経とうが素晴らしい時代は二度とやってこない。スマートフォンに支配された時代が永遠と続くのみです。



その人類の文化の終演、そしてネット支配の特異点へと向かう『はざま』の時代という特別な時代に生きる我々は、何百年、何万年後の彼らに、何を遺し、何を伝えることができるのでしょうか…





考えるヒント25
『人類がネットに支配される日』でした



To be continued…

考えるヒント 24『芸術が生まれる時』―歴史―

「語学」「数学」「理科」「歴史(社会)」「芸術」「宗教」「思想(哲学)」「医学」、これらすべての学問の中で、人間の目的として位置しているものは「歴史」のみで、それ以外はすべて手段としてのみ存在しています。
つまり「歴史(小さく言えばそれぞれの人生)」を築くために我々は手段として言語や計算、芸術や科学、哲学や地理などを使うのであって、決してそれだけでは根本としての目的には成り得ません。
紛れもなく人間は、自分の人生を構築し、家族の人生、子孫の繁栄、果ては国の繁栄を目指して生涯を送るのであって、つまりは「国の歴史を築く(一家の歴史を築く)」一員として存在するためにそれぞれがその時々の時代を生き抜いているのです。

例えば、豊臣秀吉に命じられて襖絵を描いた絵師もいれば、異国から国を守る為に大砲を作った人、米を作り売り払うために計算をした人、言葉を使ってわめき散らす子供達、村の発展の為にひたすら考え続けた村長、病気を治す為に薬を開発した人、それらのすべての人や事柄が歴史を作り上げてきたのです。

つまり簡単に言うとすべての学問(すべての人の人生)は歴史に内包されているのであって、歴史こそがすべての学問や事柄の根底と外延を司っているのです。

あなたの30代前のひお爺さんもその歴史の一端を担った一人なのです。



したがって翻して考えれば、歴史の知識、知恵、大局的視点を浅はかにしか含んでいないような学問(真)、芸術(美)、宗教(善)であるならば、それ自体をいくら高めても底の知れた浅はかなものしか構築できないということです。

1000年の歴史を感受しながら描いた絵と自分の数十年だけで描いた絵では重みが違うのです。

この50年の極端な芸術性の衰退は、明らかに現代人の歴史観の欠如に他ならないのです。

ちなみに、500年後に過去の著名な芸術家、文学家、思想家を100人上げさせたなら、現代のこの50年間の人物は一人も出てきません。もちろんこのあとの500年の期間の人物も、おそらく一人も出てきません。

それほどに歴史観を欠いてしまうと浅はかな人間、浅はかな国家、浅はかな芸術しか構築できないのであり、人間の目的である歴史、つまりは祖先の人たちがたどってきた一人一人の人生やその時代の様相に興味がないような人物が織りなす芸術などは、底が知れたものになるのは明白なのです。

それは歴史というものの大きな流れに自らを含めない行為であり、現代人は50年前に歴史は止まっていると勘違いしているようなものであり、したがって歴史を大切にしない世代が、500年後に歴史に登場できないのは当たり前のことであり、我々は忘れ去られた世代となりかねないのです。


「今を大切に生きる」というスローガンを信じて生きる現代人は、このような大変な歴史の空白に身を投じてしまっているのです。


大切なのは「今」ではなく「歴史」すべてであり、そうであるからこそ「今」もいつの日か素晴らしい時代と成り得るのです。
現代人は自らの手で、自分の生、自分の存在を、いずれの日にか無意味になるよう仕向けているようなものなのです。



これこそが実は現代人の持つ本当のパラドクスです。



『今』だけを大切にすればするほど、『10年後』にはどうでもいいものになるし、
『自分』だけを大切にすればするほど、『他人』から見たときにはどうでもいいものになります。


すべての『歴史』、すべての『他人』、そしてすべての『物質』や『生物』、要はこの宇宙にあるすべての時間、物質、精神をそれぞれがお互いに愛し、知ろうとし、興味を持ってこそ、『自分』という存在が三人称的に意義をなし、宗教的に言えば成就、成仏できるのです。

いずれの宗教でも悟りとしているものはこのようなものなのです。


キリストを例にあげれば、

「汝の敵を、隣人を愛せよ」

その途端に、実は自分自身とその周りのすべての者が、掛け替えのない存在へと、鮮やかすぎるほどに変化していくのです。


その言葉にさらに究極の重みを加えるなら、

「汝の生きている時代以外のすべての時代を愛せよ」


ということになります。
今ばかりを愛しすぎてはいけないのです。
2000年以上も前に獲得していた英知を人類はいつの間にか豊かになりすぎ忘れてしまったのです。




それでは素晴らしい芸術が生まれる土壌と条件とは如何なるものか。



・歴史を多分に感じられる社会風土であること。

・人間の幸せと不幸を目の当たりにしながら育つことができる、豊かと貧困が入り混じった激動の時代であること。

・生きるために使わざるおえない時間を除く、自由に使える時間が一定以上あること。

・幼い頃から十分な高等教育を受ける機会があること。



これらのうちで現代の平均的な日本人が持ち合わせている条件は、自由時間と高等教育です。歴史を軽視しすぎであり全員が豊かすぎます。

それでは最も多くの芸術家を排出した明治時代において、どのような立場の人間が歴史上の100人に入るような芸術、学問を成し得たのか。

明治においては、歴史は社会風土的に必ず感じられる時代であり、世の中は激動と貧困が溢れた時代でありました。この時点で国民すべてが感受性の非常に豊かな状態にあります。
そうした中において、上流階級の者は高等教育を現代以上にしっかり受け、そして芸術や学問に取り組む時間が一定以上確保できた。
自分は豊かですが、周りはとんでもない状態であり、収入の8割を食料に使い、幼児死亡率が5割を超え、寝る6時間以外は一日中働き詰め、というとんでもない時代です。そのような中でも感受性豊かな素晴らしい心で懸命に生き抜く、そんな人々が周りに溢れている社会で、高等教育をしっかり受け、芸術に費やす時間を十分に有している人物、そんな高等な人物に周りの人々が希望を見いだし、自分に変わって溢れんばかりの時代的「美」や「心」を体現してくれる存在として懸けたのではないでしょうか。

つまり自らも、そして周りの人々も時代すべてがそれらを作り出す条件と土壌を完全に有しており、放っておいてもそこかしこから自然発生的に素晴らしい芸術が湧き出てくるような人類史上例を見ない、最高の時代背景であったのです。


そのような偉人たちは、ほとんどが真似できないような、とんでもなく辛く悲しく、しかし濃く美しい波瀾万丈の信じられないような人生を送っています。
土壌が違いますから、現代人ではどんなに恵まれた環境の人でも、彼らに匹敵できるような環境で生を送ることは不可能です。


しかし、一つだけ現代人に残された可能性があるとすれば、


歴史をしっかり捉えた上で、自らの人生に課題を設け、自らをそういった波瀾万丈の辛く悲しく美しい人生へと「いざなう」


それしか現代に生きる我々が『素晴らしい芸術を産む』可能性はないのではないでしょうか



我々の祖先の方々が、魂を込め、命懸けで、精一杯生きてきたあらゆる時代や精神を、知り、愛し、受け取め、いつの日にか、あなたの時代や精神もそのように愛されるよう、まずはあなたから他を愛し、他の時代を知る。
それしか自分や自分の時代というものが真に存在する方法はないのです。



そうした時に初めて、本当の芸術というものは生まれてくるのです。




考えるヒント24『芸術が生まれる時』でした



To be continued‥

考えるヒント23 『すべての人間は先生である』

世界中のどんな場所でも、親は子に教え、上司が部下に教え、先生が生徒に教える。

両者の関係はこれで終わりと思われがちですが、まれに親も上司も先生も教えながら自分も学んでいるのだ、という見識の深い言葉を聞くことがあります。
大抵はここまでなのですが、よく考えれば、親も上司も先生も学んでいるのならば、子や部下や生徒はある意味、逆に教えてもいるということです。
もちろん教える内容は異なります。生徒は生徒が学ぶべきことを学ぶし、先生は先生としての学ぶべきことを学びます。
したがって、生徒がいなければ先生は学べないし、生徒が学校や授業や先生に興味がなく、やる気のない態度をとり続けたなら、先生は先生としての学ぶべきことを全く学べません。
親もしかり、上司もしかり、リーダーも、キャプテンもしかりです。

しかし世における多くの場合、上の者は自分のためだけではなく、下の者のためを想って考え、教え、行動しますが、下の者は自分のためだけに教えてもらい、行動します。

「教えてくれる先生のためにも、少しでも成長した自分を見せられるよう頑張る」
このように考えてくれる生徒ならまだしもですが、
「自分のために教えてくれているのだから、自分の興味がないことは聞かなくてもいいし、自分が他のことをしたいと思ったなら構わずそうすればよい」

こうなればその関係は崩壊し、生徒も先生も全く学べなくなります。


したがって、子や部下や生徒は「自分は教えてもらうだけ」という間違った固定概念を改め、自分という存在がその家庭、その職場、その教室を、親や上司や先生とともに築き上げ、上からの一方的な教育だけではなく、相互的に絡み合い、学び合い、成長し合う、その「場」における根本的な土壌を自分自身が担っているのだということを認識しなければなりません。
つまり簡単に言えば、下である自分から、先生や上司や親や先輩に対して、向上心や気持ち、やる気が乗っていっている状態を示し、上の者のやる気や尊厳や意味やさらなる向上心を造りだし、相互に立場や意識空間を造り合うのです。そしてそれは必ず数倍になって自分にまた返ってくるのです。

吉田松陰松下村塾などはまさにその典型です。結局、松陰が誰よりも教えられ、成長している。そしてその弟子が国家の中枢の半分を占め、明治維新において列強から国を守るという偉業を成し遂げるのです。


この「相互的な場の形成」というものは、例えば、他人の家を訪問するときも同じです。
家の人は部屋を綺麗にし、精一杯接待し、おもてなしをしますが、訪れた人も精一杯その家を楽しみ、おもてなしを心からありがたく受けなければいけません。
友達とどこかへ観光に行ったり遊びに行ったりするときも、そして他人の芸術作品にふれる時も同じです。


つまり、この世界で生きている以上、自分が途方もない生を受け継いで生まれてきた以上、他人やこの世界に対して、いついかなる時も、どのような「場」にいるときでも、自分自身の役割を認識し、他人やこの世界に対して有益であり続けなければならないのです。


そのように心がけていない、そのように行動していない人間は、たまたま周りの素晴らしい人間や、国や国民のために寝る間も惜しんで努力してくれている上の人たちのおかげで、なんとか生きていけているのであり、こんな過ごしやすい世の中が勝手に出来上がるわけはなく、つきつめれば、過去の自分に繋がる遺伝子を有した何万という人間すべてが、なんとか前述のような相互に絡み合った人間関係、世界との関係を生き抜き、築き上げ、成し遂げてきたからこそ、自分自身の存在、今現在の生活が有るのです。


すべての人間は子、部下、生徒であるときも、親、上司、先生であるときも立場を問わず、学び、教え、相互的に助け合い、絡み合いながら生きている存在なのです。




カントが導き出した最高哲学に『道徳律』というものがあります。



『汝のなそうとしているまさにそのことが、そのまま世の中の道徳や、人類の行動規範となっても構わないと思われることのみを行え。全人類がそれを行えば、理想と目的に満ちた素晴らしい世界が訪れるであろう』



まずは自分の今いる家、学校、職場、友人関係などにおいて、自分は如何なる存在であり、如何なる行動をなすべきか、それを自問してみてはいかがでしょうか。




考えるヒント23『すべての人間は先生である』でした



To be continued…

音楽を考える 5『声質』

『歌唱とは人間そのものである』



映画やドラマにおいて、俳優はその時と場に応じた声の出し方をする。喜んでいるシーン、怒っているシーン、語り合うシーン、愛を打ち明けるシーン、悲しんでいるシーンなどさまざまであり、もし悲しんでいるシーンで喜んでいる声質をだしたならその映画はもうそこで台なしである。
さらには、怒るシーンが多い配役には、怒る声質の得意な役者を付け、恋愛シーンの多い配役にはそれが得意な役者を付ける。
そして、非常に演技力の問われる超大作には超一流の役者を付ける。超大作ともなると最高の声質で様々な場面で話せる役者をつけないと、その作品のレベルと役者とのバランスがとれず、支離滅裂なシーンの連続になってしまう。つまりその『作品』に見合う器量、もしくはそれを上回る器量を持ち合わせた『人物』でないとそれは勤まらないのである。


『歌』も映画やドラマとまったく同じでそのシーン、シーンに合わせた声質で歌わなければならない。つまりはその歌詞とメロディーを語るのである。悲しい歌詞の部分では悲しい声、高揚したメロディーの部分では喜びの声、そして『超大作』を歌うにはそれに見合う声を出さなければならない。もし見合わない声を出してしまえば映画やドラマ同様、支離滅裂となる。
そして歌というのは映画とは違い、その一作品のなかに喜怒哀楽が様々に含まれるということはあまりなく、喜びの歌は終始喜び、悲しみの歌は終始悲しみといった具合である。つまり歌い手の声質の幅により、すでに歌える歌が決まってしまっているのである。無理に合わない歌を歌えばそれはただの一人よがりで誰も感動しない。

そして、その声の種類以上に大事なのが声のレベルである。レベルの低い聴き心地のよくない声でいくら頑張って歌ってもそれはいっこうに他人には届かない。
つまりはそれは頑張っていないのと同様なのである。歌において頑張るというのは、つまり『素晴らしい歌』を歌うことなのであるから、本当の頑張りとは、どうすれば素晴らしい歌声を披露出来るようになるか考え、試行錯誤するということなのである。

そしてそれは単純に考えるなら、『他人が聴いて心地よい、感動を与えられる歌声』ということになる。


映画やドラマで演技や語りが下手な人がでてきて感動できるだろうか?

たいした器のない人間が出て来て感動出来るだろうか?

では歌は?

歌唱技術だけで声質がイマイチな人間が出てきて感動できるだろうか?

たいした器のない人間の歌声に果たして感動出来るだろうか?


俳優や女優には素晴らしいトップレベルの人間しかなれないように、プロアーティストも基本的にトップレベルの人間しかなれないのである。
普段から皆に一目置かれる人間だからこそ歌も一目置かれるのだ。
人間と歌唱の二つが満たされて初めて人々は感動する。

そしてその二つの掛橋は何を隠そう『声質』なのである。


『声質』は日常生活において磨かれるものであり、歌唱の練習だけでは磨かれるものではない。
ステージで『他人に心地よい歌声を届ける』のと、日常で『他人にとって心地よい声で話す』のはほぼ同じことであり、日常でそれが出来ていないのにステージで突然できるようになることなどありえないのである。
日常生活で他人を幸せにできる人だけが、ステージでも他人を幸せにできるのである。

『歌唱』を極めるということは『技術』と『声質』を極めるということであり、『声質』を極めるということは日常での『他人への思いやり』を極めるということであり、『他人への思いやり』を極めるということは『人間としての品格』を極めるということである。

つまり、歌手にとって

『歌とは人生そのもの』

であり

『歌のレベルと人間のレベルは一対』

であり

『歌を歌う時も日常で語り合う時も同一』

であり、つまり

『歌唱とは詞を語るもの』

であり


『歌を極めるということほど、人間がともに磨かれるものは他にはないのである』

考えるヒント22 『文化』

今日は『文化』についてお話したいと思います。



世界にはさまざまな文化が存在していますが、それらはそこにあって当たり前のもの、人間社会に自然に存在しているものと思われています。
海で魚が群れて泳いでいるように、鹿が野山を駆け巡るように、岩場で鷹が巣を作るように、人間もコンクリートや木で家を作り、電車や車で移動し、テレビやスマートフォンを見るのが当たり前だと思われています。
誰も、電車に乗っていて「この箱のようなものはなんなんだ。前に座っているわけのわからないものを身にまとい、変なものを顔に塗りたくっている女はなんなんだ。なぜ景色がこんなに猛スピードで通り過ぎていくんだ。その前に、なんでこんなにギュウギュウ詰めで人間がいるんだ。」
と不思議に思い、あ然とする人はいません。というよりもいないと思い込んでいます。

しかしアフリカの奥地のなんとか族を連れてきて電車に乗せれば、前述のような感想を必ず持ちます。

つまり、人々は自分の住んでいる世界が当然で当たり前だと思い込み過ぎているのであって、実際は住んでいる世界も、周りに溢れている精神世界も、すべてが自然からはかけ離れたとんでもない人間社会の産物なのです。



鷹もカブトムシもマグロも鹿も、生まれて放っておいても、遺伝子により勝手に生きて自分たちの生を全うできます。
地球上の全生物はほんの一部の高等な類人猿の種をのぞき、生存のために受け継がれる『文化』といったものはほぼ持っていません。遺伝子に組み込まれた反応のみで一生を全うできるのです。

ところが人間は全く逆で、遺伝子だけでは到底生きていけないばかりか、文化の継承がなければこの人間社会は途端に全くのゼロに後戻りします。
一般の人間はそのようなことは浅くしか思慮したことがないので、誰もが「そんなことはないだろう」、と思ってしまっていますが、前述のアフリカ人が示してくれたように、自分の知らない文化は理解できず、したがって赤ん坊に何も教えずに育てれば、まさにこのアフリカ人と同じ反応になります。

「この箱はなんなんだ」です。

言葉も知らない状態ですから感覚でそう思うだけです。

そして例えば、日本人は毎年100万人が産まれるとして、この一年に産まれた100万人の赤ん坊全員に何も教えずに育てれば、なんとその学年だけが高校生の年齢になっても、100万人全員が電車に対して「この箱はなんなんだ」となります。
さらには、そのような何も教えない年代を100年連続で続ければ、電車も、テレビも、作物の栽培も、家の建築も、日本語も、芸術も、我々が日々当たり前だと思っているほぼすべての物や文化や文明を根底から失った、ただの猿が1億人いるだけの島になってしまいます。
あるいは日本の文化を教えず、ヨーロッパの文化を徹底的に教えれば1億全員が根本からヨーロッパ人になるし、ヨーロッパ人を1億人連れてきて日本で育てれば、1億全員が白人で日本の文化はそのまま残った、肌の色が入れ替わるだけの状態になります。

つまり我々が日本と思っているもののほとんどは、『日本文化』のことなのです。
すべてはオギャーと生まれて周りの人間や社会がどれだけ文化や言語、慣習を教えるかによって、猿にもなれば日本人にもヨーロッパ人にもなり、文化の薄れた新時代人にもなり得るのです。


ここまでくればある程度日本の現状が見えてくると思いますが、日本の社会全体が年々本来の日本文化からはかけ離れた空白のような文化へ加速度的に邁進し、そのような悲惨な発育環境、教育環境で育つ世代が、さらに空白の文化をつくりさらに加速度的に教育環境を悪化させる、というとめどない悪循環に陥っています。

日本人は日本社会が誕生した2000年前からほんの100年前まで1900年間、自分の親や、祖父母の世代と何ら変わらない、文化の継承、しつけ、教育、環境、を子供の世代に与え続けてきました。しかも彼らは生きていくのもやっとの世代であったため、現代人では真似できないほどに必死に全身全霊で子供達への文化の継承を行いました。
親が子をほおっておいて馬鹿になってもどうしようが生きていけるような、現代のような豊かすぎる甘い世の中ではなかったのです。

今のままの現状では、生きていくのは何ら問題はないが、充実した人生を送るにはあまりにも空虚すぎる世の中が延々と加速しながら続いていくだけのつまらない世界になってしまいます。

100%正しい文化もなければ、「美」ばかりが溢れている文化もありません。しかし、人類はとにかく祖先が築き上げてきた文化を自分の代で絶やさないことだけを想い、必死に徹底的に文化を何とか繋ぎ合わせてこれまでやってきたのです。

自分の代ですべての文化を途絶えさせるというような、物事の破壊などは人間は簡単に出来てしまいます…
しかし祖先が延々と受け継いできた文化を、オギァと生まれた白紙の次の世代にすべて伝えることは並大抵の努力では出来ません。ですが少なくとも自分もしくは親が持っている文化というものは、その前の世代の方々が何とか必死に守り伝えて下さったものであるのですから、自分も同じだけのものを次の世代に伝えることはそれは我々の使命なのではないでしょうか。


この文化の希薄になった時代に、我々はできる限り親や祖父母の世代から文化を吸収し、そして子供や次の世代に必死に有無を言わせず伝えきることをやらない限り、この文化の空白の時代は加速していき、やがて人類は精神的な面で滅んでいくのです。

精神が滅んでは他の動物と同じ、いや環境を破壊するだけ人類は存在すること自体がいっそう無意味になっていってしまうでしょう。


現代人のほとんどは、そしてあなた自身もそのような破壊的な社会の状態を加速させ、人類が精神的に滅んでいくのを助長させてしまっているかもしれません。


もう一度、歴史や文化、伝統、祖先、その国が育んできた精神、というものをしっかり見つめ直し、人類普遍の原理、「前の世代の文化を次の世代へそのまま伝える」この当たり前のことを使命としてしっかりやり遂げていきましょう。




「自分」とはすなわち
    「文化」であり

「自分」とはすなわち
   この世界そのものなのです




考えるヒント22『文化』でした



To be continued‥

考えるヒント21 『愛着と飽き』

今日は『愛着と飽き』についてお話したいと思います。



人間は『愛着』を持ったり『好き』になったりすること以上に『飽き』という感情を多く持った生き物です。


なぜあんなに美味しいのにケーキやハンバーグを毎日食べると飽きるのか。
なぜ好きなアーティストの曲でも、1日に20回聴こうと思わないのか。
なぜ大好きな交際相手と、3日連続会うより 一週間空けて会うほうが気持ちが高ぶるのか。

これらはすべて人間にのみ備わった『飽き』という感情からくるものです。
他の動物は毎日同じ物ばかり食べるし、同じ場所にいるし、同じつがいと四六時中一緒にいます。飽きという感情が備わっていません。というよりも備わっている人間のほうが特殊といったほうがいいかもしれません。

それではなぜ、人間にはそんな特殊な『飽き』という感情が備わったのか。
それはまさに進化の過程で備わったものなのです。


他の動物はもちろん毎日同じ場所で同じものを食べることによって安定した生息環境を維持できます。他の個体と出会うことによる危険も回避できます。
しかし、人間は世界中のさまざまな場所へ行き、ありとあらゆるものを食材とし、ひと月に何百人もの人間と会います。

これはただ単に、人間には好奇心や冒険心がたまたま備わっていただけ、と思われがちですが、実はそうではありません。
生物が遺伝子情報として備えているもののすべてには必ずなんらかの生存や子孫繁栄に有利な情報が備わっているのです。

つまり、人間はいろいろな場所へ出向き、いろいろな物を食べ、いろいろな人と会ったほうが生存に有利なのです。他の生物とは全く真逆の遺伝子を持っているのです。



それはなぜか?



人間は賢い脳を持っているがゆえに、自分の知らない範囲外の危険な場所へ行っても、すぐにそれを克服しプラスに変えることができます。
生息場所を争うより、他に移ったほうが安全なのです。さらには危険や困難や新しいものを克服することにより、より生存に有利な知恵や頭脳を獲得します。それによって一カ所に止どまっている部族よりも遥かに強くなります。

そして、他の動物の100倍ともいわれる豊富な食材を調理して食べることにより、ある一つの食材の不作や減少による飢餓を他の食材により補うことができます。
人間は他の動物の100倍もの、食材における保険を携えているのです。


さらには人間は助け合う精神を持っています。ボノボという種の猿とチンパンジー以外の地球上のすべての生物は助け合うという概念を持っていません。自分もしくは一族以外はすべて敵です。
しかし自分がリンゴを100個持っていて、相手が芋を100個持っていれば、絶対に50個ずつ分け合って助け合ったほうが有利です。
さらには人間は知恵を与え合って助け合うこともできます。食物の栽培方法、住居の建築方法、舟の作り方、薬の作り方、社会のルールの決め方など、より多くの人と交流したほうが生存のための知恵が得られます。それらの利は他人や他部族と接することによる危険を遥かにしのぎます。



このように人間は、知恵と克服する頭脳を備えているが故に、『愛着』や『依存』という生命普遍の原理を捨て、世界中のさまざまな場所へ行き、ありとあらゆるものを食材とし、ひと月に何百人もの人間と会うという、他の生物では考えられない『飽き』という遺伝子を有したのです。


そうであるからこそ、『飽き』という一見生存に不利とも思えるとんでもない遺伝子を、人間は多分に有しているという事実を十分に理解した上で、『恋愛』や『結婚生活』その他諸々、その事実とは反比例した『依存心』を必要とする分野について、深く思慮し、相当の覚悟で臨まないかぎり、3分の1の離婚組に必ず入ってしまうという事実も同時に有しているのだということを知っておかなければいけません。




残念ながら人間は必ず飽きるのです。

それは進化の過程で獲得した揺るぎない事実なのです。




あなたの好きな人へのその想いも…


だからこそ単純な幻想的な「好き」という感覚ではなく、具体的な相手の精神や能力などを認めた上で、『恋愛』や『結婚』などに臨むべきであるし、


人生におけるすべての事柄において、単純にその時の感覚だけで『好む、好まない』を判断するのではなく、実質的な価値を十分に考慮した上での、『飽き』に左右されない好み方や判断基準というものを常に心がけるべきなのです。




人間社会における文化の中で、最も飽きやすいものこそ

何を隠そう


恋した相手、『恋人』なのです…




考えるヒント21『愛着と飽き』でした


To be continued…

考えるヒント20 『美しき世界』

今日は『美しき世界』についてお話したいと思います。


『何故世界はこんなにも美しいのか』


この美しすぎる世界において、人間が感じる美しさには三つのものがあります。

一つは人間自身が作り出す美しさ。
絵画や建築、音楽や文学、文化遺産、人々の歴史や人生そのものがまさに美に溢れています。


二つ目は自然が作り出した何万年と変わらない不変の景観としての美しさ。
アルプス山脈南極大陸、太平洋の海や島々、グランドキャニオンにビクトリアの滝、この大宇宙の星々など、壮大かつ優美すぎて言葉も出ないほどにその美しさに圧倒されます。


そして三つ目は、変化を伴う動植物が見せる四季折々の素晴らしい光景としての美しさ。
例えば日本の野山を一年間眺めると、春は花々が咲き乱れ桜色に染まり、梅雨には衣をほしたような白く薄い霧に覆われ、夏には草木が青々と生い茂り、秋にはかえでの紅葉が山肌を下り、冬にはまさに古来より詩に詠まれたごとく、藍白という一面真っ白な静まり返った世界が現れる。



もし多様なほど素晴らしいというのが事実ならば、四季においてこれほどに表情を変える自然を有する唯一の国、日本ほどに美に溢れる国はないということなのです。

一年中真夏の珊瑚が綺麗な太平洋の島、一年中壮大な美を見せるアルプスの山々、広大な一面の砂漠や草原、それらにいくら接したところで一生その不変の同じ表情の美を見つづけることしかできません。
しかし日本においては、先に挙げた5つの季節に加えて台風、地震なども伴い、たったの一年でとんでもない多様な表情を見せる自然を目の当たりに生きていくことができます。

しかもほんの100年前まではビルもコンクリートも車も冷暖房も何もなく、大自然がまともに人体と心に直接染み入る生活を送っていました。


だからこそ、自然というものに儚さやもののあわれといったものまでも感じることの出来る唯一の民族に日本人はなることが出来たのです。


かつての、日本の芸術、日本の文学は世界中のあらゆる芸術、文学よりも遥かに優れていて、他の国々よりも500年先んじて芸術、文学を極めていたと言われていましたが、まさにそれこそが、日本という国土が持つ『変化』を多分に伴った自然というものが作り出した、常ならぬ儚き『美』だったのです。
明治時代には世界一の芸術大国フランスの美的感覚を根底から覆してしまうぐらいに、近代以前の繊細な日本の芸術は群を抜いていたのです。


しかし、現代の日本人は野山から遠く離れ、自然を感じることなく、ビルやコンクリートの家や冷暖房と肩を寄せ合った生活を送り、変化を伴う儚いものに対する繊細な美や感覚を失った状態になっています。

変化を嫌い、不変を好む人間ばかりが増え、したがって自らを変え成長させることを嫌い、今の自分を絶対視してしまう、欧米や世界の国々の人間とさほど変わらない、自己中心的で、情緒、繊細さ、もののあわれなどの感性を失った人間が増えてしまったのです。




   方丈記鎌倉時代


ゆく河の流れは絶えずして

  しかももとの 水にあらず

   よどみに浮かぶうたかたは

  かつ消えかつ結びて

 久しくとどまりたる ためしなし

  世の中にある人とすみかと

    またかくのごとし





このような繊細で自然の摂理をわきまえたような情緒的感覚は、もはや現代人では持ち得ないように思われます。

近代化を成し遂げた日本人(人類)は、このような美や感性を失ってまでも、何か得るものはあったのでしょうか。

そして、その流れに乗ってそのままコンクリートと冷暖房ばかりの生活に甘んじている我々は、何を求め、どこへ向かうのでしょうか。



この美しき世界が与えてくれる「常に非(あら)ず」の感性を、もう一度呼び戻す為にも、そのような大自然が身体全体に染み渡る生活にもう一度身を投じ、そうして本当に大切なものは何なのかを、コンクリートの世界にいた頃と比較してみる機会を、我々は一生のうちに一度は必ず持つべきなのです。




70年前まではすべての人が当たり前のように持っていた、『美しき世界』が与えてくれる感性を、本当に大切なものを、あなたは知らないままに一生を終えていくことができますか?





考えるヒント20『美しき世界』でした



To be continued…

考えるヒント19 『夢』

今日は『夢』についてお話したいと思います。


人は誰しもが幼いころ、「一年は長いなあ」と感じながら生きていたはずですが、大人になり年を取るにしたがって「一年があっという間に過ぎていく」という感覚になります。
これはどういうことなのか?相対性理論のごとく、実際に時間が短くなっているのか?


これは実は「体内時計」が子供と大人では違うからで、よく言われるところのゾウとネズミの関係です。
ゾウは60年、ネズミは3年生きますが、心臓の鼓動はどちらも一生のうちで15億回打ちます。哺乳類はどの種もすべて15億回で、人間も医学が発達する以前は寿命30年で15億回です。
簡単に言うと大きい動物ほど鼓動が遅く、体外時計的に言うと動きが遅い。逆に小さい動物ほど鼓動が速く俊敏に動き、瞬間的な判断で機敏に生きている。
つまり人間はゾウよりも2倍の速さで生きており、ネズミは20倍の速さで生きているのです。

わかりやすい表現で言うと、5メートルの高さから落とすと、ゾウもネズミも同時に地面に着きますが、ネズミ目線で見ると
「落ちる落ちる、高い、落ちる落ちる、どう地面に落ちようか」
となるし、ゾウ目線で見ると、
「えっ」
で終わりです。

つまり体内時計的に言うと、人間もゾウもネズミも同じだけの長さの一生を過ごした感覚になるということです。
ネズミからすれば人間などスローモーションで動いているように見えます。

来世に生まれ変わるならゾウのほうがネズミよりも長く生きられるから得、ということはないのです。


そして、人間も子供は小さく俊敏で、1日中動き回り、日々新しいものを発見しながらその日その日を過ごします。逆に大人は落ち着いて、新しい発見もなく、日々同じ仕事をこなします。

先ほどの例でいうと、子供がネズミで大人がゾウです。まあそこまでの差がないとして、子供がウサギぐらいですかね。

つまり子供のほうが何倍も1日が長く感じながら生きているのです。


では、生物学的に、子供のようにより多くの新しい発見や経験があるほうが体内時計的に有利だとすれば、例えば1日の3分の1を占める睡眠というのは非常に不利なように思われます。

夜寝てから朝目覚めるまであまり時間が経過していないように感じます。まるで前述のゾウですね。逆に、毎日2時間しか寝なければ、より多くの時間活動出来るわけですから、前述のネズミや子供と同じ事になります。

しかし人間は1日に6時間以上寝なければ体が回復しませんから、2時間しか寝ないわけにもいかないし、体は寝ながら頭だけ起きるというわけにもいきません。



というわけで『夢』の登場です。



夢は体も寝て頭もほぼ寝ているのに「無意識」のうちに勝手に頭を動かしまくって、脳を鍛えます。しかも夢のすごいところは、起きているときのように外部からの情報をもとに脳を動かすのではなく、内部にある蓄積された情報をもとに脳を動かします。まるで瞑想している時のごとくです。

よく言われる理論では夢は脳にある情報を寝ながら整理するためにあると言われますが、実はそうではありません。より多くの時間(体内時計的に見た時間)、脳を活動させて生物学的に他よりも有利に脳を鍛えるために、脳内にある限られた情報の中でできる限り頭を使おうとしているのです。
起きている時は記憶し、寝ている時に頭を活性化させて脳の考える力、物事を捉える力を養うのです。
脳内を整理するだけなら起きているときに出来るように進化すればよかったのです。
しかし考える力、捉える力を養うのは起きているときにはできません。
何故なら勉強家以外は起きている間中、外部刺激に対してだけ反応して日々生きているからです。決して頭の中をこねくり回して瞑想のような状態で過ごしている人は一般的な人では一人もいません。

そしてなぜ寝ている間の3分の1の時間しか夢を見ないのかというと、夢の間は起きている時の数倍頭をこねくり回しますからすぐ疲れます。そのためにレム睡眠とノンレム睡眠を交互に繰り返して脳を休ませる必要があるのです。延べ2時間ぐらいが限度です。

だから起きているときには、夢ほどには頭をこねくり回すことができません。

よく言われるところの、芸術家において寝る直前や頭が幻覚を覚えたり覚醒したりした状態の時に特に良い作品が浮かぶことが多いのは、そういう状態の時ほど頭のイメージ中枢が数段に活性化されている為です。普通の外部刺激を受けた状態の時にはイメージの膨らんだ作品は生まれません。

ちなみに20歳ぐらいまでの頭の柔らかい時期に、毎日30分以上、自分の頭の中で物語、ストーリーを作る作業、つまり夢と同じ作業をやったなら、実際に飛躍的に脳が賢くなり、頭のレベル、頭の受け皿が各段に強く大きくなります。


この事実からも、夢は記憶の整理ではなく、脳の賢こさ、受け皿を強化する為にあるのがよくわかります。

だから夢を多く見るのは人間のみです。ネコやイヌはほとんど見ません。
ちなみに幼い頃ほど夢をよく見るという事実も、幼い頃に脳の基礎のほとんどが形成されるのと比例しています。年を取れば取るほどに、夢で脳を鍛える必要がなくなるのですね。



17世紀の哲学者スピノザは、


「人間の一生は神に投げられた小石のごとく、あらかじめ決められた放物線を描いて地面に落ちていくのみである」

と言いました。


その放物線を少しでも鮮やかにより長く描きたいのなら、子供の頃のように日々新しい事に挑戦し、夜は出来る限り夢を見ることです。



『夢』は見れば見るほどに

脳が鍛えられ

そして『夢』を持って生きるほどに

時が味方となって

その想いは叶えられるのです




考えるヒント19『夢』でした



To be continued‥

考えるヒント18 『絶対と相対』

今日は『絶対と相対』についてお話したいと思います。


『絶対的』なものと『相対的』なもの、どちらがより正しく素晴らしいものなのか。これは古今東西、昔より議論されてきた哲学の難問です。
『絶対』とは宇宙の法則や神の視点から見て正しいと思われる事柄であり、『相対』とはそれぞれ個人や別の個体におけるそれぞれの視点から見た事柄を指します。したがって『絶対』はたったひとつの答えしかありませんが、『相対』はそれぞれから見た答えがあり、つまり無限に答えがあるということです。

近年、世界の流れは『相対』を重視する傾向にあります。『平等』『個性の尊重』などまさに相対的なものの見方が主流となっています。


しかし『相対的』な視点には実は落と し穴が隠されているのです…



市場でマグロのつやを見ただけでそのウン百万円の価値がわかる人がいます。八百屋でスイカを叩いただけでそのうま味がわかる人がいます。彼等のような専門家には『絶対』の能力が備わっています。
それと同じように、絵画を見ただけでその価値や製作年代がわかる人もいれば、音楽を聴けばそのジャンルやレベルの高さがわかる人もいます。

もし『相対的』な視点で個々人がマグロを取引したり、中がパサパサで空洞のスイカを八百屋で売ったりしたら大変なことになるし、例えば『モナリザ』を知らない人に見せてもそれがまさか何百億の価値があるとはよもや思わないし、ギターやサックスをやったことのない人に他人の技術の高さを評価することなどまず できません。

つまりそこには大前提としての『絶対的なるもの』が9割ぐらいはまず含まれているのです。それを見越した上であとの1~2割を個性や個々の好みで多少変化を付けているにすぎないのです。

それを取り違えて10割すべてを『相対的なるもの』に視点を変えてしまえば、もはや何が正しいのかもわからなくなり『相対』のもつ素晴らしさすら消えうせ、そこには個々がてんでんばらばらに選んだ事柄をさらにてんでんばらばらに評価する、価値観の全く見えない世界が生まれてしまうのです。
そういう視点から見た時、現代は本当の価値というものを見いだせない不幸な時代へ加速度的に進んでいっているのではないでしょうか。
昔はその道のプロに対して素人は「雲の上の存在」のように感じることがありましたが、『相対的』な世界観が広まり、誰でも素晴らしいと考えてしまい、プロと素人の距離感がなくなりました。

それらのことを踏まえて厳密に言えば、その分野の専門家以外には発言させてはならないし、世の中のことを考えていない人間には選挙権も与えてはいけないのです。実は民主主義の落とし穴もここにあります 。ダメな国民がダメな政治家を選び、国がさらにダメになり、さらにダメになった国民がさらにダメな政治家を選び、しまいには国が滅びてしまうのです。(今のところ民主主義以上にましな制度が考えだされていないためこれが世界の主流となっています)

この同道巡りはあらゆる分野、世界に言えることなのです。

その土地や国の文化の素晴らしさはその土地の人が一番よくわかっているはずだから、よそ者は口を出すべきではないし、音楽を日々考えている人が音楽を評価するべきだし、マグロは魚屋さん、スイカは八百屋さんに任せておくべきだし、『人』の評価は、人間を日々必死で観察し考えている人に託すべきだし、

『この世界とはなにか』『人生いかに生きるべきか』という問いに 対する答えは、それを考え尽くした人以外は出すべきではないし、

もし何らかの分野の答えを出したいのであれば、その分野を徹底してやるしか道はないのです。



『その分野における能力のない者の発言などほぼ無に等しい…』

この事実を傲慢になりすぎた現代人は肝に銘じておくべきなのです…


昔の人々はだからこそ黙ってただひたすらに黙々と努力し続ける人生を送ったのです。
現代人よりも遥かに自然の節理を見極め

『絶対的なものの大切さ』

『相対的なものの危うさ』

『この大自然、大宇宙に対する自分の無力さ』

をわかっていたのです。

自分とは別のところに、絶対的なものがあるからこそ
『和をもって尊しとなす』
に代表されるような『和』というような精神も生まれてくるのです。


人の命は地球よりも重い、世界に一つだけの花になりなさい、などと教えられて育った浅はかな我々現代人に、そのことがわかる日が再びいつの日か訪れることはあるのでしょうか‥





『語りえぬものには沈黙しなければならない』

  by ヴィトゲンシュタイン





考えるヒント18『絶対と相対』でした


To be continued‥

考えるヒント17ー2 『70億頭のゾウ』

その一つとして、例えば『エコ』と言われるものを考えてみましょう。

エコによって人間が削減できるエネルギー、資源はせいぜい10%未満です。しかもエコを達成するために多大な費用やエネルギー、人材が使われているため、結局は全体的にほぼ同等のエネルギーが逆にかかり、何もエコをできていないのが現状です。
もし仮に10%の削減を達成出来たとしても、資源を使い果たすのが200年であったのが220年に10%延ばされるだけの話しであり、何も根本的な解決にはなっていない。つまり皆が『エコ』という綺麗ごとに逃げているだけなのです。

つまり根本的に解決しようと思えば、ゾウ一頭と同じエネルギーを使うのをやめて、人間本来の使うべきエネルギー量(原始時代~江戸時代 の使用量)に戻さない限り、いずれは人間世界は崩壊し惨憺たる未来が待ち受けているのです。


『エコなどはただの綺麗ごとでいくらやっても意味がないのです』


つまり本当の正しいエコとは、根本的に自分の使うエネルギー量を何十分の一に削減した極端な原始人並もしくは産業革命以前の質素な生活を行うということであり、そうしない限り永遠に環境破壊は進み続けていくのです。

平和ボケした現代人は目の前のことしか考えられなくなり、永遠にこの幸せな世界が続いていくのだと勘違いしていますが、人間の歴史と言うのは根本的に悲惨な苦しい歴史であり、現代のほんの一時の豊かな幸せを通常だと思い込んでいるのがそもそもの元凶なのです。


しかし、豊かさに慣れし たしんだ現代人がそのような質素な生活に戻るのはもはや不可能です。

さりとて、それをしなければ孫、そのまた孫の時代には環境破壊が果てしなく続き、近代文明は崩壊してしまいます。地球も目茶苦茶になります。

しかし…

結局のところ結論を言うと、人間にはそのような根本的なエコは100%不可能でそれはできないのであり、従って数百年後には必ず現代社会は崩壊し、豊かな時代は幕を閉じるのです。

ちなみに宇宙進出などは何万年経とうが物理的に不可能です。科学技術はすでに頭打ちの状態です。以後何万年経とうとほぼ進歩はできません。


つまりそれらをふまえて現代人の我々が今、成すべきことは何かを考えるなら、それは「生きる為、子孫を残す為、幸せな人生にするために働き生活する」ということではないし、「世界中をビルとコンクリートばかりの世界にする」ことでもないのです。



『豊かな余裕のある時代の人間にしかできない、高度な 文化や学問や芸術の構築を子孫や人類史の為に成し遂げる』



これこそが現代人の我々がすべきことであり、散々地球の資源やエネルギーを使い果たしながら生きた我々が浮かばれる唯一の道なのです。


ダーウィンの言葉に次のようなものがあります。

『十分な教育を受け、日々の糧のために働く必要のない人々の存在は、いくら評価しても評価し過ぎることはないほど重要である。高度に知的な仕事はすべて彼らによってなされている』


現代の日本人のほぼすべての人々はこれを出来る環境にあります。簡単に言えば過去の全人類史のなかでトップの1%の中に1億の日本人全員が含まれている。それほど現代日本人は恵まれた環境にあるのです。膨大な資源エネルギーを使い果たしながら生きる我々 日本人、1億すべてが昔で言う貴族、上流社会の環境にあるのです。
周りとの比較など関係ありません。自分の人生にどれだけの自由に使える時間と余裕があるかがすべてなのです。
やろうと思えば誰でも自分の子をモーツァルトにもニュートンにもシェイクスピアにもマザーテレサにも出来るのです。一億すべてがそれが出来るのです。

なぜなら、我々は昔の一般民の何十倍もの『ゾウ並のエネルギー』を実際に使用し、貴族並に余裕のある生活を実際に送っているからです。

あなたは実際に自分の5代前の祖父母より何十倍も楽で豊かな人生を送っているのです。

そして、それと引き換えに資源を使い果たし、地球を蝕み続けているのです‥



あなたはそれだけのことを実際にしながら 、自分の5代前の祖先や5代後の孫たちに、『自分が人生において成し遂げたこと』を胸を張って語ることができますか?


もしこれまでの人生が、ただ単に地球を蝕むだけの人生であったなら、今この時からでも、

素晴らしい文化や芸術、人間の英知‥ すなわち


『真・善・美』


を少しでも極めるための人生を歩み努力するべきではないでしょうか‥?


それこそが200年後の彼等に報いるための唯一の『業』なのです。



70億頭のゾウは今、この時も、何も成し遂げないままにただ、地球を蝕み続けているのです‥




考えるヒント17 『70億頭のゾウ』でした


To be continued‥

考えるヒント17ー1 『70億頭のゾウ』

今日は『70億頭のゾウ』についてお話したいと思います。


『人は何のために生きているのか?』


この問いを真に考えながら生きている人は10人に1人もいません。皆、深くは考えずにただなんとなく、日々楽しく幸せに生きられればそれでいいという程度の発想で生きています。
そして100人に9人ぐらいは『人のために生きる』と考えています。
しかしよく考えれば『その人』のために生きても『その人』が何も考えずただ‘のほほん、と生きていたとしたら、その『人のために生きる』というのはただ、その‘のほほんを助長しているだけに過ぎず、結局は人助けにも何もなっていない。それはただ『人助け』という綺麗ごとに逃げているだけなのです。だからただ単に『家 族のために仕事をがんばる』というのは大間違いなのです。


では100人に1人の真剣に考えている人はどう考えているのか?
かの人たちは人を中心には考えず、『本当に大事なこと』を中心に物事を考えます。
『本当に大事なこと』のために人助けが必要なら人のために生き、『本当に大事なこと』のために自分や他人の幸せを犠牲にしなければならない時は迷いなくそうします。
そして単に人を助けるのではなく、人を考えさせます。
一時、人を助けてもその人が自分で道を切り開いていけなければ同道巡りになり、また誰かが助けなくてはならなくなります。

ですから何が大切かを順序とすれば、まず
一に、『最も大事なことは何か』を自分で考える。
二に、それを自分の子供や家族に教える。
三に、それを他人に教える。
四に、自分がその『最も大事なこと』を実行する。
五に、生きるための努力をする。

このように、生きるためだけにしている努力などは、順序でいうと下の下なのです。まず何が大事かを考えてこそ生きることの価値が生まれてくるのです。


そこでこのような問いが生まれてきます。

『他の生物もただ生きるために日々過ごしているだけなのだから同じことなのではないか?』


それではここで考えるヒントです。


人間以外のすべての生物は自らをわきまえて生きています。決して自分が生きていく上で必要以上のものを欲しないし、種の存続のために最大の努力をしても、それ以上、種が爆発的に増えることがありません。
それは何を隠そうこの地球 には限りのある資源しかないからです。ですから基本的には地球上の生物全体は一年間に太陽から注がれるエネルギー全体以上のものを使うことはできないので、必然的に共存に向けて種の個体数を調整し、やりたい放題はしないように本能でコントロールされているのです。
ゆえに、コントロールされずに際限なく欲望を求めていくのは人間のみで、人間は、本来生きていくために必要とするエネルギーの数十倍のエネルギーを使い果たしながら生きているのです。
他の生物や、元々地球に埋まっている鉱物、過去の生物の死骸が何十億年もかけて作り上げた石油や天然ガスなどを、わずか200年で欲望のままに使い果たそうとしているのです。

ゾウは体を支えるために莫大なエネルギーを使うのでこ の地球上では70万頭しか生息できません。それが通常は限界なのです。
しかし『あなた(人間)』は一人生きるために、あのゾウ一頭とほぼ同じエネルギーを年間に使い果たしながら生きているのです。平均でそれですから豊かな日本人はゾウを遥かに上回ります。化け物のようなあの大きなゾウと同じだけのエネルギーを使い果たしながら70億人がこの地球上で生きているのです。

『70億頭のゾウ』がこの地球を蝕んでいっているのですから、もちろん他の動植物は多大な被害を被るし、地球自体も無茶苦茶になり、最後には自分(実際には子供、孫)たちが悲惨な目に会います。

しかし、今さら産業革命以前に戻ろうと思っても、もはや科学技術、情報が行きすぎたこの人間世界は後戻りす ることは不可能なのです‥


それでは我々現代人はいったい何をすべきなのか?

考えるヒント16 『科学の進歩』

今日は『科学の進歩』についてお話したいと思います。


現代の人間はどうやら物理や科学というものにたいへん弱いように思われます。科学の本質について全く解っていないのです。
昨今、最先端技術などがもてはやされて久しいですが、それは言葉を変えれば、もはや最先端、末端、枝葉の部分しか進歩出来る領域が残っていないことの裏返しなのです。
まだまだ未知の領域が溢れかえっているのに、誰が、一つのことだけを、95のものを96にするために生涯を捧げますか?
20や30の領域のものが溢れかえっているなら、誰でもそれらを60や70にするために生涯を捧げるでしょう。
しかし科学の分野においてはすべてが進歩しつくし、90~100の領域のものがほとん どというのが現状です。
人々は最先端という言葉に惑わされて、科学や文明はどこまでも進化していくと思い込んでいるだけなのです。

200年後も1万年後も、トラックがビュンビュン走っているし、水道の蛇口から水をひねって出すし、畑を耕して食べ物を作るし、小さい頃から親に勉強、勉強と言われるし、家やコンクリートで雨風をしのいで過ごすのです。

未来映画のようには決してなりません。

何故なら、物理科学的に見て、地上では物は車輪で運ぶべきだし、水道技術は人類の誇るべき最高技術であるし、食べなければ人は生きていけないし、いくら人類は進歩しても赤ん坊にはまた一から教え直さなければならないし、雨を降らさないことも出来ないからです。

200年後も1万年後も、車が空を飛ぶこともなければ、機 械から水が溢れ出てくることもなければ、生まれてすぐ知能をインプットされ太陽の光だけでエネルギーを補給する人間も誕生しないし、バリアーを張って雨風外敵を防ぐことも出来ないのです。

そんなことができれば神業(かみわざ)で、人間は科学、物理法則に則ったことしかできないのです。



人間は神ではないのです‥


神ではないが非常に賢い生き物で、すぐに人間業の限界まで到達してしまう生き物なのです。


科学は2000年の時点で進歩しきっており、これから未来にはほぼ一歩も進歩しないのです。


皆さんは、何もないところから白黒テレビが突然現れるのと、白黒がカラーテレビになるのと、カラーが液晶になってさらに綺麗になるのと、どれが一番衝撃 ですか?
その90%の衝撃は白黒テレビがさらっていくでしょうね。
液晶や3Dなどものの数ではないのです。
テレビにおいて白黒の衝撃を超えようと思うなら、テレビの中からシマウマや料理がいきなり飛び出してこないかぎり無理でしょうね。でもそんな物理法則を無視した神業は実現しません。
50年も昔に人類はその進歩の80%をすでに達成していたのです。『最先端』に惑わされ、人々はその本質が全く見えていないのです。


これまで人類史は様々な苦難が起こるたびに科学の進歩によってその苦難を乗り越えてきました。科学の進歩がそれを覆い隠してくれたと言ってもいいでしょう。
科学の凄まじい力で地球の資源を掘り尽くし、それにより異常な豊かさを手に入れてきたの です。


そしてこれからの200年、1万年はもはやその苦難のオブラートである『科学の進歩』はもはやないのです。

はたして人類は今後、苦難に直面したとき、何をよりどころとしてそれを乗り越えていけばよいのでしょうか。


『科学の進歩』がもはや使い物にならないと悟った時、人類はその苦難から新たな救いの業を生み出すことができるのでしょうか。



新たな救いの業‥



それはまさに


『真・善・美』


以外にはありえないのではないでしょうか‥



考えるヒント16『科学の進歩』でした


To be continued‥

『音楽を考える 4』

晴天の夜、頭上に広がる星の傘を見上げれば、誰もがその壮大な芸術的美に感嘆する。

そこにシリウスという一番明るい星がある。そのシリウスは明る過ぎるため、その真後ろ、つまり地球とシリウスの延長上にある星は人類は絶対に見ることはできない。そして実はその延長上にある星は宇宙で唯一のダイヤモンドより100倍輝く七色の奇跡の星であったとしよう。
人類は誕生して、滅びるまでシリウスのせいで絶対に物理上その奇跡の星を見ることはできない。そして、宇宙中で生命は地球のみだったとしよう。
つまり、その奇跡の星は誰にもその有り得ないほどの美を見せることなく輝き続けるのみなのだ。
それでもその星は実際に存在している。しかし誰もその美は感じない。

果たしてその場合、その奇跡の星の『美』は100なのか、それとも0なのか?

もし100だとするなら、音楽も、他の芸術も同じで、誰かの耳に届ける以前に、作った時点で、あるいは奏でた時点で、その曲の価値はすでに決まっているということになる。
つまり素晴らしい音楽を世に出す必要はなく、作り出した時点で完結する。

(ちなみにここで言う美とは、あらゆる分野に芸術は存在しているという意味での普遍の美である)



しかし、存在するだけでは0だとしたら、話は異常にややこしくなる。
では、より多くの何百万という人々に聴いてもらえれば、より100に近づけるのか?
否、そうではない。
いくら100万人が聴いてもそれぞれが全然集中せずさらっと聴き流したとしたら、そんな曲はないようなものである。
つまり聴き手の裁量によって、0にもなり、100にもなる。
とすれば、聴き流している99万9000人よりも、集中(分析や感動やその他諸々)して聴いている1000人のほうが遥かに美が溢れた音楽を聴けていることになる。
そして、このように1000人と99万9000人を分けてしまうなら、つまりは上位の1000人の中にもその聴き方にそれぞれ差があり、突き詰めていけば、90万番目に集中して聴いている人より、1000番目に集中して聴いている人のところに美が溢れているのであり、30番目に集中して聴いている人はさらにその曲が美の境地に達しているのであり、
世界一、音楽を愛し、知識を持ち、分析し、感動し、誰よりも集中してその曲を、頭と心に、そして体全体に、人生全体に、奏でている人の所にこそ、その曲の本当の本物の美が溢れているのである。


つまりはこういうことである。

最高の美が溢れるためには、作り手に加えて、最高の聴き手が必要なのである。最高の聴き手がしっかりとその溢れんばかりの美を受け取ってこそ初めて完結するのだ。


ということは、こんなとんでもない結論が見えてくる。


例えば90万番目の感動の薄い人間はあらゆる分野の美に対して感動の心をもっていない。

逆に世界に有数の、美に対する感動(あらゆる知識含む)の持ち主は、ほとんどの分野の美に対して感動する能力を持ち合わせている。


つまり、作り手は各分野さまざまだが、最高の感動をする能力の持ち主は一定で有数である。

各々、各分野において技術的な感動は個々人に発生するであろうが、根本的な人類普遍の美に対する最高の感動はその域に達した有数の人物にしか存在しない。

したがって、もしその分野に携わるその域に達した人材がいなければ、その分野の美、感動は完結しないことになる。


つまりは、もし低次元な世の中が続き、そういった人材が世界中どこにも現れなくなったとしたら、もはやこの世界には最高の美は存在しえないという事態に陥る。
しかも美を作り出す方よりも、美を感じる人間の方が、遥かに育て上げられにくい。最高の美を感じる人間は常に感受性豊かで博識であることが根本的な条件としてあるためだ。
一芸主義的なただその分野の技術を磨くだけの人間には決して最高の美は感じとることは出来ないのだ。

そして

あと数十年後には人類はついに、世界中の戦前生まれの感受性豊かな博識の最高の美を感じられる世代がいなくなるというとんでもない時代を迎えることになる。


一番恐ろしいのは、そうしたことで美を作り出す側の人間が惑い、さらに低次元な美に走ることである。

そのような事態にならぬよう、我々新時代の人間は、過去の偉人や名作、歴史や芸術をしっかりと学び、決して低次元な流れには流されぬよう、しっかりとした人生哲学を持って歩んでいかなければならないのである。





『音楽を考える 4 』でした


To be continued…

『音楽を考える 3』


『音楽』とは、音を楽しむ芸術である。

そうであるならば、音だけを純粋に楽しむべきではないのか?という疑問が当然湧いてくる。
しかし古今東西どこを見渡しても、音楽は常に目で見える『姿』とともにあるのが普通である。歌っている姿、演奏している姿を求め人々はステージの前に殺到する。
レコードやCDという、音だけを純粋に楽しめる機材がいくら発達しても、人々は歌っている姿、演奏する姿を求めステージの前に集まり、音楽番組を血まなこになって見る。
映像つきなら必死で聴くが、音だけなら聴かない人も世の中には多数いる。
そんなに映像や姿が好きなら、写真を見たり人間観察ばかりしていればいいものを、なぜか映像つき、姿つきの『音楽』をひたすら愛している。しかも他の芸術よりも群を抜いて音楽は愛されている。


なぜ、こんな矛盾が生じるのか?



それはつまり、映像つき、姿つきの音楽のほうが、映像なしの音のみの音楽よりも素晴らしい音楽に聴こえるからである。

まったく同一の音楽が違う音楽に聴こえるのだ。

さて、ここで何割かの人は「自分はそうではない」と思ったことだろう。実はこの「何割か」というのがミソである。つまり人によって、変わるのだ。なにがそれを変えるのか?

「映像にだまされている。つまり映像や姿の良さを見て、勘違いして音楽まで良いと錯覚している。つまり映像にだまされない人は同じように聴こえる」

この答えは的を得ているようで実は正確ではない。


正確には、人間の意識が大きく関わってくるのだ。



犬は音楽を聴いてもただの雑音にしか聴こえない。
人間も違うことに意識がいっている状態では音楽は雑音に聴こえる。もしくはなんとなく音楽っぽいものを感じるといった程度にしか聴こえない。

また、初めて聴く曲は自分の頭で同時にメロディーを追っていけない分、音と意識が一体にはならない。
何回も聴いたことがある曲でも、頭で同時にイメージを膨らます訓練が出来ていない素人は、音と意識が一体にはならない。

つまりその人が、どれだけ意識を集中して音楽を聴ける能力と状態と環境にあるかによって、音楽の聴こえ方が変わるのだ。
それはつまりは、その人にとっては音楽自体が変わっていることを意味する。
音楽自体は何も変わっていないのに、音楽自体が変わっているのだ。

10人がその音楽を聴けば、まったく同一のその音楽が、10人それぞれの音楽に、その音楽自体が変化するのである。

つまり個人においても同じことで、映像や姿つきで音楽を聴いたほうが、より引きつけられ、より集中力をもって聴ける。ゆえに、そこで音楽自体が変化し、より良い音楽を聴いているということになる。

自分自身も時と状況によって10通りの人間(聴き手)に変化するのだ。

つまりより良い音楽を聴きたいがゆえに、音楽に対して浅い人は、映像による集中力の増加を求めて、音楽番組を必死で見るのである。

逆に音楽に深い人は、映像なしで十分に集中して音楽を聴けるため、どういう聴き方でも、音楽はさほど変化しない。


したがって

なぜ、人々は音楽番組を血まなこになって見、ステージの前に殺到するのか、
という問いの答えは、

「映像にだまされている」

ではなく、

「映像によって集中力が増し、音楽自体がより良く変化するため」

というのが正解なのだ。

もっと正確に言うと、その歌っている本人の人柄や人生やこれまでのストーリーに共感すればするほど、さらにその音楽は味や深さをまし、もはや音楽単体で聴いたのとはくらべものにならないほどに音楽自体が変化して聴衆の耳に届くのである。

つまりより良い音楽を、多数の聴衆の耳に届いたおりに発生させたいと思うなら、その『音楽自体が変化する』ということをしっかり見極め、いかにして聴衆の心をこちらへ向けさせ、聴衆の集中力と意識を高められるかにすべてはかかっているのである。


言わば、ステージに立つものは、その会場にいる間に、聴衆の心を奮い立たせ、普段にはない集中力を発揮させ、会場に入った時点よりも幾分か人々を成長させ、ラストの曲になったぐらいの時には、明らかに人々の目つきや心や気迫などが変化して、数日間、人々がその時の空気の感動の余韻にひたる、というようなステージを成し遂げてこそ、


その音楽の持っている『本質』を100%聴衆の耳に届けることが出来るのである。




ちなみに…

音のみで始めから100%その音楽の本質を見極められる人は


100人に一人もいない


楽家にとってはつらいことである




『音楽を考える3』でした


To be continued…

考えるヒント15 『多様性』

今日は『多様性』についてお話したいと思います。



「多様なものほど素晴らしい」


このことはよく考えればすぐにわかります。例えばこの地球上に人間しかいないよりも、他の何百万という種類の生物がいたほうがいいし、この宇宙が炭素だけで構成されているよりも何十何百という元素で成り立っているほうがいいし、目で見える色が青一色よりもいろいろな鮮やかな色が見えたほうがいい。

もし音が3音しかなかったら音楽もできません。


このようにより多様であるほうが素晴らしいというのは宇宙における明らかな事実なのです。


そもそも宇宙が0(=存在しない)であることをやめてビックバンでの誕生により1以上(=存在する)になったこと自体が『宇宙は多様を求めている』ということなのです。



ちなみに『統一性』という素晴らしさはその『多様性』の上に成り立つものであって単独では存在しえないものです。


つまりなによりもまず多様でなければならないのです。


『シンプル』という素晴らしさに関しても、『多様』であればシンプルも多様も存在し得ますが、『単一』しかなかったらシンプルしか存在しなくなります。シンプルしか存在しなかったらもはやシンプルという素晴らしさすら存在出来なくなるのです。




この世界には様々な『文化』があります。なぜこれほどまでに多様な文化が生まれてきたのか?それはこの地球上には無数に異なる環境条件があり、その土地その土地で生きていくための最適な文化を創り上げていかなければならなかったからです。


人口が多い地域では宗教や法律(ルール)を発達させ、寒い地域では雪や土に穴を掘って暮らし、熱い地域では高床にして湿気を防ぐ。

逆のことをすれば途端に滅んでしまいます。


そうして多様な国土や自然の中から生まれてきた『多様』な文化があるからこそ、この世界は素晴らしいのであり、日本もほんの100年前までは色とりどりの地域があったがゆえに素晴らしかったのです。

そして「文化の交流」も、ある程度以上、交通や情報網が発達しない限りにおいてはさらにその土地土地の文化を高めるためには必要不可欠なものであったのです。



しかし‥



この文化の『多様性』を維持出来る範囲を越えた、極端な「文化の交流」があった場合、逆に世界中の文化は「単一化」の方向を一気に辿り、『多様性』を失った文化は諸手をあげて崩れ落ちてしまうのです。



西洋において大航海時代以降、世界を単一化する方向が進み、さらに近代のここ100年における科学技術の発達により、「交通」「情報伝達」が進み過ぎたため、世界はまさに均一化され、日本もアフリカも南北アメリカもアジアもどこへ行ってもビルばかり、車ばかり、冷暖房の効いた屋内で一年中同じことの繰り返し、というなんの面白みもない世界になってしまったのです。



何事も広め過ぎてはいけない。


『狭く浅く』も『広く浅く』も『広く深く』も結局は滅びてしまう。


『狭く深く』これこそが多様で素晴らしい文化を養う唯一の方法なのです。

可哀相でも遠くの他者や国はほおっておかなければならないのです。海外支援なんかをするより、いかにすればその国の文化を孤立した状態で保てるかが大事なのです。そのためには何も干渉しないことです。
自分の周りの人にだけ精一杯尽くせば良い。それができた時にだけ、あとの余力で少しだけその輪を広げるぐらいでよいのです。決して国を越えて文化を押し付けてはならないのです。



多様であるほど希少価値が生まれ、均一であるほど価値が失われる



もし‥


モナリザの絵が1000枚あれば


もし‥


世界中の絵がモナリザと似たりよったりの絵ばかりなら


もはやモナリザの価値はないに等しいものになってしまうでしょう‥


この世に『均一化』ほど恐ろしいものはないのです‥






考えるヒント 15 『多様性』でした




To be continued‥