考えるヒント 24『芸術が生まれる時』―歴史―

「語学」「数学」「理科」「歴史(社会)」「芸術」「宗教」「思想(哲学)」「医学」、これらすべての学問の中で、人間の目的として位置しているものは「歴史」のみで、それ以外はすべて手段としてのみ存在しています。
つまり「歴史(小さく言えばそれぞれの人生)」を築くために我々は手段として言語や計算、芸術や科学、哲学や地理などを使うのであって、決してそれだけでは根本としての目的には成り得ません。
紛れもなく人間は、自分の人生を構築し、家族の人生、子孫の繁栄、果ては国の繁栄を目指して生涯を送るのであって、つまりは「国の歴史を築く(一家の歴史を築く)」一員として存在するためにそれぞれがその時々の時代を生き抜いているのです。

例えば、豊臣秀吉に命じられて襖絵を描いた絵師もいれば、異国から国を守る為に大砲を作った人、米を作り売り払うために計算をした人、言葉を使ってわめき散らす子供達、村の発展の為にひたすら考え続けた村長、病気を治す為に薬を開発した人、それらのすべての人や事柄が歴史を作り上げてきたのです。

つまり簡単に言うとすべての学問(すべての人の人生)は歴史に内包されているのであって、歴史こそがすべての学問や事柄の根底と外延を司っているのです。

あなたの30代前のひお爺さんもその歴史の一端を担った一人なのです。



したがって翻して考えれば、歴史の知識、知恵、大局的視点を浅はかにしか含んでいないような学問(真)、芸術(美)、宗教(善)であるならば、それ自体をいくら高めても底の知れた浅はかなものしか構築できないということです。

1000年の歴史を感受しながら描いた絵と自分の数十年だけで描いた絵では重みが違うのです。

この50年の極端な芸術性の衰退は、明らかに現代人の歴史観の欠如に他ならないのです。

ちなみに、500年後に過去の著名な芸術家、文学家、思想家を100人上げさせたなら、現代のこの50年間の人物は一人も出てきません。もちろんこのあとの500年の期間の人物も、おそらく一人も出てきません。

それほどに歴史観を欠いてしまうと浅はかな人間、浅はかな国家、浅はかな芸術しか構築できないのであり、人間の目的である歴史、つまりは祖先の人たちがたどってきた一人一人の人生やその時代の様相に興味がないような人物が織りなす芸術などは、底が知れたものになるのは明白なのです。

それは歴史というものの大きな流れに自らを含めない行為であり、現代人は50年前に歴史は止まっていると勘違いしているようなものであり、したがって歴史を大切にしない世代が、500年後に歴史に登場できないのは当たり前のことであり、我々は忘れ去られた世代となりかねないのです。


「今を大切に生きる」というスローガンを信じて生きる現代人は、このような大変な歴史の空白に身を投じてしまっているのです。


大切なのは「今」ではなく「歴史」すべてであり、そうであるからこそ「今」もいつの日か素晴らしい時代と成り得るのです。
現代人は自らの手で、自分の生、自分の存在を、いずれの日にか無意味になるよう仕向けているようなものなのです。



これこそが実は現代人の持つ本当のパラドクスです。



『今』だけを大切にすればするほど、『10年後』にはどうでもいいものになるし、
『自分』だけを大切にすればするほど、『他人』から見たときにはどうでもいいものになります。


すべての『歴史』、すべての『他人』、そしてすべての『物質』や『生物』、要はこの宇宙にあるすべての時間、物質、精神をそれぞれがお互いに愛し、知ろうとし、興味を持ってこそ、『自分』という存在が三人称的に意義をなし、宗教的に言えば成就、成仏できるのです。

いずれの宗教でも悟りとしているものはこのようなものなのです。


キリストを例にあげれば、

「汝の敵を、隣人を愛せよ」

その途端に、実は自分自身とその周りのすべての者が、掛け替えのない存在へと、鮮やかすぎるほどに変化していくのです。


その言葉にさらに究極の重みを加えるなら、

「汝の生きている時代以外のすべての時代を愛せよ」


ということになります。
今ばかりを愛しすぎてはいけないのです。
2000年以上も前に獲得していた英知を人類はいつの間にか豊かになりすぎ忘れてしまったのです。




それでは素晴らしい芸術が生まれる土壌と条件とは如何なるものか。



・歴史を多分に感じられる社会風土であること。

・人間の幸せと不幸を目の当たりにしながら育つことができる、豊かと貧困が入り混じった激動の時代であること。

・生きるために使わざるおえない時間を除く、自由に使える時間が一定以上あること。

・幼い頃から十分な高等教育を受ける機会があること。



これらのうちで現代の平均的な日本人が持ち合わせている条件は、自由時間と高等教育です。歴史を軽視しすぎであり全員が豊かすぎます。

それでは最も多くの芸術家を排出した明治時代において、どのような立場の人間が歴史上の100人に入るような芸術、学問を成し得たのか。

明治においては、歴史は社会風土的に必ず感じられる時代であり、世の中は激動と貧困が溢れた時代でありました。この時点で国民すべてが感受性の非常に豊かな状態にあります。
そうした中において、上流階級の者は高等教育を現代以上にしっかり受け、そして芸術や学問に取り組む時間が一定以上確保できた。
自分は豊かですが、周りはとんでもない状態であり、収入の8割を食料に使い、幼児死亡率が5割を超え、寝る6時間以外は一日中働き詰め、というとんでもない時代です。そのような中でも感受性豊かな素晴らしい心で懸命に生き抜く、そんな人々が周りに溢れている社会で、高等教育をしっかり受け、芸術に費やす時間を十分に有している人物、そんな高等な人物に周りの人々が希望を見いだし、自分に変わって溢れんばかりの時代的「美」や「心」を体現してくれる存在として懸けたのではないでしょうか。

つまり自らも、そして周りの人々も時代すべてがそれらを作り出す条件と土壌を完全に有しており、放っておいてもそこかしこから自然発生的に素晴らしい芸術が湧き出てくるような人類史上例を見ない、最高の時代背景であったのです。


そのような偉人たちは、ほとんどが真似できないような、とんでもなく辛く悲しく、しかし濃く美しい波瀾万丈の信じられないような人生を送っています。
土壌が違いますから、現代人ではどんなに恵まれた環境の人でも、彼らに匹敵できるような環境で生を送ることは不可能です。


しかし、一つだけ現代人に残された可能性があるとすれば、


歴史をしっかり捉えた上で、自らの人生に課題を設け、自らをそういった波瀾万丈の辛く悲しく美しい人生へと「いざなう」


それしか現代に生きる我々が『素晴らしい芸術を産む』可能性はないのではないでしょうか



我々の祖先の方々が、魂を込め、命懸けで、精一杯生きてきたあらゆる時代や精神を、知り、愛し、受け取め、いつの日にか、あなたの時代や精神もそのように愛されるよう、まずはあなたから他を愛し、他の時代を知る。
それしか自分や自分の時代というものが真に存在する方法はないのです。



そうした時に初めて、本当の芸術というものは生まれてくるのです。




考えるヒント24『芸術が生まれる時』でした



To be continued‥