『音楽を考える 4』

晴天の夜、頭上に広がる星の傘を見上げれば、誰もがその壮大な芸術的美に感嘆する。

そこにシリウスという一番明るい星がある。そのシリウスは明る過ぎるため、その真後ろ、つまり地球とシリウスの延長上にある星は人類は絶対に見ることはできない。そして実はその延長上にある星は宇宙で唯一のダイヤモンドより100倍輝く七色の奇跡の星であったとしよう。
人類は誕生して、滅びるまでシリウスのせいで絶対に物理上その奇跡の星を見ることはできない。そして、宇宙中で生命は地球のみだったとしよう。
つまり、その奇跡の星は誰にもその有り得ないほどの美を見せることなく輝き続けるのみなのだ。
それでもその星は実際に存在している。しかし誰もその美は感じない。

果たしてその場合、その奇跡の星の『美』は100なのか、それとも0なのか?

もし100だとするなら、音楽も、他の芸術も同じで、誰かの耳に届ける以前に、作った時点で、あるいは奏でた時点で、その曲の価値はすでに決まっているということになる。
つまり素晴らしい音楽を世に出す必要はなく、作り出した時点で完結する。

(ちなみにここで言う美とは、あらゆる分野に芸術は存在しているという意味での普遍の美である)



しかし、存在するだけでは0だとしたら、話は異常にややこしくなる。
では、より多くの何百万という人々に聴いてもらえれば、より100に近づけるのか?
否、そうではない。
いくら100万人が聴いてもそれぞれが全然集中せずさらっと聴き流したとしたら、そんな曲はないようなものである。
つまり聴き手の裁量によって、0にもなり、100にもなる。
とすれば、聴き流している99万9000人よりも、集中(分析や感動やその他諸々)して聴いている1000人のほうが遥かに美が溢れた音楽を聴けていることになる。
そして、このように1000人と99万9000人を分けてしまうなら、つまりは上位の1000人の中にもその聴き方にそれぞれ差があり、突き詰めていけば、90万番目に集中して聴いている人より、1000番目に集中して聴いている人のところに美が溢れているのであり、30番目に集中して聴いている人はさらにその曲が美の境地に達しているのであり、
世界一、音楽を愛し、知識を持ち、分析し、感動し、誰よりも集中してその曲を、頭と心に、そして体全体に、人生全体に、奏でている人の所にこそ、その曲の本当の本物の美が溢れているのである。


つまりはこういうことである。

最高の美が溢れるためには、作り手に加えて、最高の聴き手が必要なのである。最高の聴き手がしっかりとその溢れんばかりの美を受け取ってこそ初めて完結するのだ。


ということは、こんなとんでもない結論が見えてくる。


例えば90万番目の感動の薄い人間はあらゆる分野の美に対して感動の心をもっていない。

逆に世界に有数の、美に対する感動(あらゆる知識含む)の持ち主は、ほとんどの分野の美に対して感動する能力を持ち合わせている。


つまり、作り手は各分野さまざまだが、最高の感動をする能力の持ち主は一定で有数である。

各々、各分野において技術的な感動は個々人に発生するであろうが、根本的な人類普遍の美に対する最高の感動はその域に達した有数の人物にしか存在しない。

したがって、もしその分野に携わるその域に達した人材がいなければ、その分野の美、感動は完結しないことになる。


つまりは、もし低次元な世の中が続き、そういった人材が世界中どこにも現れなくなったとしたら、もはやこの世界には最高の美は存在しえないという事態に陥る。
しかも美を作り出す方よりも、美を感じる人間の方が、遥かに育て上げられにくい。最高の美を感じる人間は常に感受性豊かで博識であることが根本的な条件としてあるためだ。
一芸主義的なただその分野の技術を磨くだけの人間には決して最高の美は感じとることは出来ないのだ。

そして

あと数十年後には人類はついに、世界中の戦前生まれの感受性豊かな博識の最高の美を感じられる世代がいなくなるというとんでもない時代を迎えることになる。


一番恐ろしいのは、そうしたことで美を作り出す側の人間が惑い、さらに低次元な美に走ることである。

そのような事態にならぬよう、我々新時代の人間は、過去の偉人や名作、歴史や芸術をしっかりと学び、決して低次元な流れには流されぬよう、しっかりとした人生哲学を持って歩んでいかなければならないのである。





『音楽を考える 4 』でした


To be continued…