『音楽を考える 3』


『音楽』とは、音を楽しむ芸術である。

そうであるならば、音だけを純粋に楽しむべきではないのか?という疑問が当然湧いてくる。
しかし古今東西どこを見渡しても、音楽は常に目で見える『姿』とともにあるのが普通である。歌っている姿、演奏している姿を求め人々はステージの前に殺到する。
レコードやCDという、音だけを純粋に楽しめる機材がいくら発達しても、人々は歌っている姿、演奏する姿を求めステージの前に集まり、音楽番組を血まなこになって見る。
映像つきなら必死で聴くが、音だけなら聴かない人も世の中には多数いる。
そんなに映像や姿が好きなら、写真を見たり人間観察ばかりしていればいいものを、なぜか映像つき、姿つきの『音楽』をひたすら愛している。しかも他の芸術よりも群を抜いて音楽は愛されている。


なぜ、こんな矛盾が生じるのか?



それはつまり、映像つき、姿つきの音楽のほうが、映像なしの音のみの音楽よりも素晴らしい音楽に聴こえるからである。

まったく同一の音楽が違う音楽に聴こえるのだ。

さて、ここで何割かの人は「自分はそうではない」と思ったことだろう。実はこの「何割か」というのがミソである。つまり人によって、変わるのだ。なにがそれを変えるのか?

「映像にだまされている。つまり映像や姿の良さを見て、勘違いして音楽まで良いと錯覚している。つまり映像にだまされない人は同じように聴こえる」

この答えは的を得ているようで実は正確ではない。


正確には、人間の意識が大きく関わってくるのだ。



犬は音楽を聴いてもただの雑音にしか聴こえない。
人間も違うことに意識がいっている状態では音楽は雑音に聴こえる。もしくはなんとなく音楽っぽいものを感じるといった程度にしか聴こえない。

また、初めて聴く曲は自分の頭で同時にメロディーを追っていけない分、音と意識が一体にはならない。
何回も聴いたことがある曲でも、頭で同時にイメージを膨らます訓練が出来ていない素人は、音と意識が一体にはならない。

つまりその人が、どれだけ意識を集中して音楽を聴ける能力と状態と環境にあるかによって、音楽の聴こえ方が変わるのだ。
それはつまりは、その人にとっては音楽自体が変わっていることを意味する。
音楽自体は何も変わっていないのに、音楽自体が変わっているのだ。

10人がその音楽を聴けば、まったく同一のその音楽が、10人それぞれの音楽に、その音楽自体が変化するのである。

つまり個人においても同じことで、映像や姿つきで音楽を聴いたほうが、より引きつけられ、より集中力をもって聴ける。ゆえに、そこで音楽自体が変化し、より良い音楽を聴いているということになる。

自分自身も時と状況によって10通りの人間(聴き手)に変化するのだ。

つまりより良い音楽を聴きたいがゆえに、音楽に対して浅い人は、映像による集中力の増加を求めて、音楽番組を必死で見るのである。

逆に音楽に深い人は、映像なしで十分に集中して音楽を聴けるため、どういう聴き方でも、音楽はさほど変化しない。


したがって

なぜ、人々は音楽番組を血まなこになって見、ステージの前に殺到するのか、
という問いの答えは、

「映像にだまされている」

ではなく、

「映像によって集中力が増し、音楽自体がより良く変化するため」

というのが正解なのだ。

もっと正確に言うと、その歌っている本人の人柄や人生やこれまでのストーリーに共感すればするほど、さらにその音楽は味や深さをまし、もはや音楽単体で聴いたのとはくらべものにならないほどに音楽自体が変化して聴衆の耳に届くのである。

つまりより良い音楽を、多数の聴衆の耳に届いたおりに発生させたいと思うなら、その『音楽自体が変化する』ということをしっかり見極め、いかにして聴衆の心をこちらへ向けさせ、聴衆の集中力と意識を高められるかにすべてはかかっているのである。


言わば、ステージに立つものは、その会場にいる間に、聴衆の心を奮い立たせ、普段にはない集中力を発揮させ、会場に入った時点よりも幾分か人々を成長させ、ラストの曲になったぐらいの時には、明らかに人々の目つきや心や気迫などが変化して、数日間、人々がその時の空気の感動の余韻にひたる、というようなステージを成し遂げてこそ、


その音楽の持っている『本質』を100%聴衆の耳に届けることが出来るのである。




ちなみに…

音のみで始めから100%その音楽の本質を見極められる人は


100人に一人もいない


楽家にとってはつらいことである




『音楽を考える3』でした


To be continued…